迷いに寄り添う勇気:アレクセイの物語
アレクセイはかつて、人生とは連続するゴールラインのようなもので、解決された疑問は新たなレベルを開くものだと信じていました。まるで家族の食卓の下で携帯の論理パズルをこっそり遊んでいるように(正直、パプリカを3つ揃えられる人がいたらメダルものです)、問題を解けば次の段階に進めると感じていたのです。しかし年月を重ね、学位や肩書、名前さえ曖昧な人々からの称賛といった「答え」を集めても、満足感は徐々に薄れていきました。社会が示す通過点――親や指導者、同僚たちが「正しい道」を示し、そこへ押しやるかのようなプレッシャーの中で、アレクセイは心の奥にどうしても解消できない「かゆみ」のようなものを感じ続けていました。どんな外からの褒賞も、このうずきを鎮めることはできなかったのです。どんなにカラフルに手帳を彩っても、それが本当に「自分の人生」なのか、それとも他人が描いた下絵をただ塗りつぶしているだけなのか、その問いは消えませんでした。そして、いつも助言ではなくお茶を淹れてくれる気づかいのある心理カウンセラーのサポートを得て、アレクセイは思い切った挑戦に踏み出しました——自分の不確かさから逃げようとするのをやめて、むしろ隣に座り続けてみようとしたのです。最初はとても怖かった。もしその頭のもやの中に、さらに大きな混乱しか見つからなかったらどうしよう? あるいは(もっと厄介なことに)ペルーでリャマを飼うという進路に目覚めてしまったら?(母親はリャマのためであっても許してくれないだろう、と思うと余計に気がかりでした)。ところが、アレクセイが疑問や不安を受け止めるのを許し、ノートに思いつくまま問いを記し、帰り道をあえて知らないルートで歩き、後悔も希望もそのまま感じ取ろうとするほどに、それらは思っていたほど厄介なものではなくなっていきました。彼は気づいたのです。解決されていない悲しみややるせなさは「敗北」ではなく、「自分の人生を、あなた自身が一歩ずつ作者となって描いてみないか」という、音もなく手渡される静かな招待状なのだと。アレクセイは小さな実践を始めました。すぐに答えを求めるのをやめて、出勤前に詩を一篇読む(遅刻しそうになっても)、拍手ではなく耳を傾けてくれる友人たちと会う。それらの小さな行為は、「わからなくても大丈夫。探し続けることをあきらめなければいいんだ」というメッセージを、不安に満ちた自分の頭にそっと送り続けていました。はっきりとした答えがすぐ得られたわけではありませんが、彼は不思議と心が落ち着いていくのを感じました。不確実さという部屋に、ただお茶を片手に座っていられるのです。それだけで、不安はいくらか和らぎました。(ちなみにアレクセイはこうも認識したのです。パプリカは3種類あればどんなスープにも十分で、4種類目は実存的な問いをキッチンから攻める行為かもしれない、と)。だからもし、あなたも後悔と好奇心のはざまで、変化の入り口に立っているのか、あるいは答えのない問いのまっただ中にいるのなら、思い出してほしい。あなたは決して一人ではないし、迷子でもないのです。アレクセイのように、古来からの「自分を形づくる」技芸の一端を担っているのだから——意味という種を自分のテンポで育て、地図がまだ白紙のうちに自らの物語を大切にしているのです。結局、庭が花開くのは締め切りを設定したからではなく、その静かなリズムに従っているからです。ちなみにアレクセイはペルーへは行きませんでした。リャマには、道に迷わない鋭い方向感覚と、夜中のつまみ食いを控えられる飼い主が必要だと判断したようです。―熟考のための問い― もし今夜、すぐにでも答えを見つけたいと切望しているなら、自分にそっと問いかけてみてください。 「どんな小さな問いなら、急がずに受けとめられるだろう? それは静かに私を、本当に望む人生——私自身の人生へと連れて行ってくれるかもしれないのだから」ときには、白紙のページを開くだけでも新たな章の始まりです。もし道に迷ったとしてもどうか思い出してください。もっとも素晴らしいレシピだって、手探りで試してみるところから生まれたのですから。